桑田真澄が憧れた天才投手は清水哲!壮絶人生と2人の感動秘話とは?

2019年5月26日(日)18:30~21:00『消えた天才』SPに元プロ野球選手の桑田真澄さんが出演されます。

桑田真澄さんはPL学園時代は清原和博さんとのKKコンビでチームを牽引したスターです。

1985年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受け入団し、華々しい功績を数々残していらっしゃいます。

そんな桑田真澄さんが憧れた天才が出演されます。

桑田真澄さんが憧れた天才は清水哲さんです。『キレとコントロール』について絶賛されています。

そんな清水哲さんについてと清水哲さんの壮絶人生と桑田真澄さんと清水哲さん2人の関係性について調べていきました。

 

消えた天才SPに同じく出演される吉田沙保里さんが恐れた天才についてはこちらです!

 

桑田真澄が憧れた天才投手は清水哲!

清水哲さんのプロフィール

  • 名前:清水哲(しみずてつ)
  • 生年月日:1966年4月9日(現在53歳)
  • 血液型:A型
  • 出身地:大阪府守口市
  • 出身中学:守口市立八雲中学校
  • 出身高校:大阪府私立PL学園高等学校
  • 大学:同志社大学文学部中退

 

清水哲さんの子供の頃の将来の夢プロ野球選手になることでした。

プロ野球選手になるには、甲子園に出場しないといけないと思っていたそうです。

そんな清水さんに影響を与えたのが、PL学園が夏の選手権大会で初優勝した時のことのようです。

PL学園の初優勝は『逆転のPL』とも言われており、1978年(昭和53年)の第60回全国高等学校野球選手権大会で、当時大阪府の私学7強の一角であったPL学園高等学校が2試合続けて奇跡的な逆転劇を起こし優勝した事を言います。

清水哲さんはその試合を見て

テレビで見ていて「負ける」と思ったところから、粘りに粘って最後には勝ってしまう。そんな勝ち方を見ていて、子供ながらに「高校はPLに入って甲子園に行くんや!」と心に決めました。

引用:ふれあい福祉

 

その後清水さんは才能を開花させます。

 

清水哲の中学時代

清水さんは、守口市立八雲高校ではエースとして活躍し、準硬式野球大阪府下大会ではチームの2年連続優勝に貢献されています。

清水さんが中学3年時(1981年)、八尾市立大正中学校2年生だったのが、元プロ野球選手の桑田真澄さんでした。

大阪府下大会で、八雲中学と大正中学は対戦し、清水さんのピッチングは桑田さんに強い印象を与えたそうです。

その試合では清水さん率いる守口市立八雲高校が1-0で勝利しています。

中学時代の活躍の結果、清水さんはPL学園に進学することができました。

 

 

清水哲の高校時代

引用:https://www.kyoto-np.co.jp/fukushi/column/kuruma/100824.html

 

清水さんが高校2年のときに、桑田さんが1年後輩として入学されています。

清水さんは、高校3年の春と夏に甲子園に出場し、春夏とも準優勝しました。

そこでの忘れられない思い出として夏の決勝戦を挙げています。

夏の選手権大会の決勝戦、9回裏、3対4で負けている時に放った同点ホームランです。小さいころにあこがれた逆転のPL、奇跡のPLを、まさか私自身が先輩と同じ事ができるなんて夢を見ているようでした

引用:ふれあい福祉

他にも、日本高校野球選抜日韓親善試合の韓国遠征メンバーに選ばれていたりと高校生でも野球で活躍を続けています。

清水哲の大学時代

清水さんは同志社大学に進学し、野球を続けていました。

秋の関西学生リーグの公式戦に2番レフトスタメンで出場されました。

5回裏、清水さんは2アウトからフォアボールを選んで1塁に出塁しました。

次のバッターのカウントが2―1から2塁にスタートを切りました。

走りながらバッターを見ると見送ったのが見えたそうです。

「なぜ、打たないのか?」。そんな事を考えながら滑るタイミングが遅れたようです。

「危ない、ぶつかる」と思った時にはもうどうすることもできなかったと語っています。

相手の野手とぶつかった事だけはわかったそうです。

しかし、目を開けることができない程の激痛が首に走りました。

自分の体を1ミリも動かせないほどの激痛だったそうです。

すぐに救急車が呼ばれ、近くの病院でX線写真を撮りました。その結果首の骨が折れていることが発覚!

この時点では、意識もはっきりとあったことから「大したことはない。指の骨や足の骨を折った時のように骨さえ元通りにくっつけば、また野球ができる」と思っていたそうです。

壮絶人生の始まり

清水さんは頸椎(けいつい)損傷という怪我を追って手術を行いました。

手術は成功!しかし1ヶ月過ぎても2ヶ月過ぎても指1本動かなかったようです。

覚悟を決め、主治医の先生に「覚悟は出来ています。本当の事を教えて下さい」と尋ねると驚きの答えが帰ってきました。

「今の医学では治せない。一生寝たきりの生活になります」と。

その時清水さんは19歳でした。19歳から寝たきりなのかという思い事実に絶望し死ぬことを決意します。

毎日死ぬ方法を考えていた清水さんは指1本動かすことができず死ぬことすらできません。

その状況にも絶望牛切っている状態で目に止まったのが、全国から送られてくる励ましの手紙であり、千羽鶴であり、毎日来てくれるチームメートであり、献身的な看護師さんの姿でもあったそうです。

毎日来てくれるチームメイトの中にはもちろん桑田選手も含まれています。

清水さんは2人きりのときに桑田さんに

「俺を殺してくれ、俺は生きててもしょうがない」といったんだそうです。

 

しかし、励まされている自分に気づいた清水さんは、

今、自分に何ができるのか、何をしなければならないのかを考えた時にいちかばちかリハビリをしようと思いました。もし、ここで何もしなかったらきっと後悔すると思いました。

と語っています。

その後、車椅子生活を強いられたが、それでも前を向き続け、懸命に生きています。

結婚もし、少年野球の指導の他、講演や執筆活動も行っています。

 

桑田真澄と清水哲の関係は?

桑田さんをPL学園に誘ったのは清水さんだと言われています。

中学校の野球部といえば軟式が主であり、全国大会も開催されるが、大阪では準硬式も行われており、桑田さんが通っていた大正中学野球部も準硬式でした。

準硬式ボールは、見た目は軟球と同じだが、中が空洞の軟球と違ってゴムの中には充填物が詰まっており、バットやグラブなどの用具は硬式用が使われます。

PL学園野球部に入部する者はボーイズやリトルシニアなどの硬式経験者がほとんどで、準硬式出身者はあまりいない状況でした。

そんな中で準硬式出身の桑田を誘ったのは、PL学園で一年先輩の清水さんだと言われています。

 

中学時代、準硬式で桑田さんと対戦したことのある清水さんは、そのピッチングの印象が深く残っており、桑田さんをPLに誘ったそうです。

元々PL学園に憧れていた桑田は、PL入学希望を一層強くしました。

晴れてPL野球部に入部した桑田だったが、その名前を知る者は清水さん以外にいなかったという状況で桑田さんの高校時代はスタートします。

PL入学直後は桑田さんによると、

「4番は清原、エースは田口権一(元・本田技研野球部)」という既定路線で、桑田以外の2人の長身の1年生が期待されており、172cmしかない桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだった」

と言っています。

そんな状況からPL学園のエースになった桑田さん。

清水さんの支えが合ったのかもしれませんね。

 

清水さんは桑田さんについて

桑田は、普通の人間。良いところもあるし、悪いところもある。

引用:http://all-pl.work/tetsu_shimizu.html

と語っています。

また桑田さんは清水さんに対して

僕をPLに誘ってくれた恩人でもあり、二年間寮で同じ部屋だった優しい先輩だ。僕がプロ野球を頑張って来れたのは、清水哲さんのお陰だ!ありがとう!と言いたいのは僕の方です

と自身の著書で語っておられます。

 

お二人には先輩後輩を超えた信頼関係が合ったのかもしれませんね。

 

まとめ

桑田さんが憧れた天才投手は清水哲さんです。

大学時代に頸椎損傷されて指一本動かせない状態になりましたが、リハビリを懸命に行い車椅子で懸命に生活されています。

PL学園に桑田さんを誘ったのは清水さんだと言われていて、2人には強い信頼関係があると考えられます。